映画『ハーモニー』のことを淡々と語る
こんばんは。オガサワラです。
先日、伊藤計劃さん原作のアニメ映画が続々とテレビ初公開されました。
今回はその中で僕の特に好きな『ハーモニー』について記事にしたいと思います。
ネタバレをゴリゴリ含むので未視聴の方はブラウザバック推奨です。
なお当記事の趣旨は原作とアニメの違いを語るものではなく、あくまでもアニメ版のみに焦点をあてて考えます。
さらに特に説明なしで本当にただたんたんと語るので原作を未読の方やアニメ未視聴の方には意味が分からないと思います。そのあたりもご了承ください。
調和のとれた状態では意識が消失するのは必然だった
脳の報酬系をコントロールし調和のとれた状態にすることで、人類を野蛮から解放するというハーモニープログラム。
作中では意識と脳の報酬系が密接に関係しているとされていますが、実際に意識というのは脳の報酬系と関係があるのでしょうか。
実際はよく分かっていません。
それどころか意識と呼べるものが実際にあるのかどうかも良く分かっていません。
とある思考実験で意識のない人間のことを哲学的ゾンビと呼び意識のある人間とない人間を見分けることができるのか…、というものがあります。
でも意識のあるなしを定義するのはとても難しいです。なんせあるかないか分からないのですから…。
そこで我々人類には意識があると前置きし、知性を持ったロボットを我々が創り出した時、そこに意識はあるのか…、というアプローチに変えてみたり、意識に対する言及はさまざまなSF作品で行われてきているわけですが…、こと『ハーモニー』は非常に唯物論的なアプローチがとられています。
意識、心や魂は脳のメカニズムが生み出す現象で脳科学で説明することができると意識のあるなしを明確に線引いたことで、超管理社会が進んだ先に調和のとれた健全で完璧な世界があり…、意識が消失するという副作用への生理的な嫌悪を描くことで調和のとれた世界をディストピアのようにみせています。
壮大なSF的テーマを持った作品です。
主人公のエゴ
超管理社会の行く末を描いたSF作品であると同時に、この物語は少女と少女の恋物語でもあります。
存在そのものが公的リソースとして政府により常に監視され、大人になれば完成された社会評価制度に縛られる、そんな徹底した超管理社会を主人公、霧慧トァンは嫌悪します。
そして、そんな社会を憎悪している御冷ミァハに憧れるようになります。
彼女の考え方に影響を受け彼女を絶対的なカリスマでありイデオローグとし、自身の中に完璧な御冷ミァハ像を構築していきました。
そして自らの手で命を絶つという生命主義社会への小さな抵抗が未遂に終わり…、御冷ミァハは死に霧慧トァンはなあなあに余生を過ごすことに…。
そんなある日、死んだと思っていた御冷ミァハが世界を震撼させるテロリストとして帰ってきたのですから…、それはもう震えたでしょう。
御冷ミァハに再開するまでの霧慧トァンには御冷ミァハに同調してしまうんじゃないかという危うさがありましたが…、ことはそうならず。
実際には再開したことで失望してしまうのです。
蓋をあけてみれば御冷ミァハが憎悪していたのは超管理社会ではなく超管理社会に縛られる自分のエゴであったからです。
故に彼女はハーモニープログラムによる副作用をよしとしました。
これは霧慧トァンが作り上げた御冷ミァハ像とは明らかに違います。
霧慧トァンが作り上げた御冷ミァハは孤独で刹那的で救いなんて絶対に求めてはいけない存在だったのですから。
とはいえ霧慧トァン良い大人なので御冷ミァハに自分が求めていたイメージが独りよがりの産物であり、彼女が真に求めている世界が何であるのかを理解します。
ただし、彼女だけはそこには連れていかない。
これが映画版『ハーモニー』の結末だったわけですが、端的に…
百合みのある良い話でした!
まとめ
ここまで語って結論がそれかいとなりますが…、それです。
あと、大仰なことを書いていても当記事での『ハーモニー』への解釈はあくまでも私見なので異論は大いに認めます。
最後まで読んで頂きありがとうございました。