loglog

『おもしろい!』が発見できる個人ブログを。アニメや漫画の話題が中心です。

ジャンプ黄金期世代の僕が《凄み》という概念を用いてジャンプに置けるバトル漫画の歴史を振り返ってみる

こんばんは。オガサワラです。

バトル漫画に置いて《凄み》は、必要不可欠な要素です。

《なんかすげえ》とにかく、そのように思わせるために、さまざまな《凄み》がバトル漫画の中で発明されてきました。

というわけでジャンプ黄金期世代の僕が《凄み》という概念を用いてジャンプに置けるバトル漫画の歴史を振り返ってみます。

前置きとしてこれまで僕が読んだことのあるジャンプのバトル漫画のみを取り上げますので了承ください。

f:id:studio_one:20170128191638p:plain

1980年代後半

ガタイの凄みVS神々の凄み

『北斗の拳』

『聖闘士星矢』

上記の2作品は僕の知っているジャンプのバトル漫画でもっとも古いもの。


僕自身はドラゴンボール世代なので『北斗の拳』や『聖闘士星矢』をリアルタイムで体験はしていないのですが、ジャンプのバトル漫画を語るに外せない作品でしょう。



さて、先ず『北斗の拳』ですが《ガタイの凄み》これに尽きます。

筋骨隆々の強敵(友)たちが、あのガタイで凄んでくるのですから、それは間違いなく強いだろうし…、間違っても逆らってはいけないという凄みを感じます。


しかし、そのガタイを北斗神拳という一子相伝の暗殺拳によりいとも簡単に片づけてしまう主人公、ケンシロウ。

ここでガタイの凄みだけではなく北斗神拳と一子相伝という《ワードの凄み》が足されます。


とにかく、なんとなく凄そうです。


ですが『北斗の拳』を象徴する凄みはやはりガタイの凄み。



一子相伝の暗殺拳、北斗神拳の継承者であり、さらに、あのガタイと太い眉毛に象徴される濃い顔。


凄みの合わせ技でいかんなく、その凄みを発揮しているケンシロウ。

ですが…、ここで注目すべきは彼の義理の兄であり宿敵として登場するラオウ。

とりあえず、でけえ。

デフォのサイズもでかいけど、シーンによっては拳とケンシロウが同サイズの描写も。

さらにラオウの愛馬である黒王号。

馬としては規格外の大きさ、これはもう馬のご先祖様か何かでしょう。



後に作者の原哲夫さんはこのサイズ感は威圧感も表現しようとしてこうなったとか…、まあそういう風に語られていた記憶があるのですが。


とにかく、このサイズ感を無視したガタイの凄みにより説得力を得ることに成功しています。




対するは『聖闘士星矢』。

登場人物はみなマッチョですが、ガタイの凄みでは『北斗の拳』より劣ります。

しかし『聖闘士星矢』には違う凄みがありました。

神々の凄みです。

テーマにギリシャ神話を持ってきたことにより神々しい凄みの獲得に成功しています。


これにより本来、謎であるのコスモという概念に説得力が与えられています。

とにかくコスモが強大で燃えていれば強い!

1990年代前半

数の暴力

ここまで様々な工夫により凄みを獲得してきたバトル漫画。

ですがここにきてシンプルな答えに帰結します。

そうです。

『ドラゴンボール』です。

ことは『ドラゴンボール』のサイヤ人編で起こります。

初期の頃の摩訶不思議アドベンチャーとはうって変わってバトル漫画にシフトした『ドラゴンボール』。

1990年台にサイヤ人編が描かれるのですが…、ここでバトル漫画に置いて大きな発明がなされるのです。

それは戦闘力という概念。

これまでドラゴンボールで「気がでけえ」とか、なんとなくだった強さの表現を数字に置き換えたこの概念は革命でした。

ドラゴンボールの世界では、より戦闘力の数字がデカいやつが強いのだというイメージを読者に植え付けます。

さらに「戦闘力たったの5か、ゴミめ」という一般人に対する台詞が比較基準として機能しており、我々は読者はどれだけ強かろうと、ドラゴンボールの世界では戦闘力1桁台なんだろうと思い知らされます。

そして本編はいよいよフリーザ編に突入します。

ここで誕生する名言


「私の戦闘力は530000です」


まだ九九も知らないのに!! 

とこれには度肝を抜かれました。


デカい桁を持ってこられたことにより力業で屈服させられ…、

マジかよーー!!

スゲーー!!

とテンションぶち上りだったあのころの僕の目は今よりもきっと澄んでいたことでしょう。

インフレーションの果てに…

シンプルにして効果絶大な結論、強さの数値化に辿り着いたバトル漫画。

しかしこの発明は新たな弊害を生みました。

バトル漫画に置けるインフレーションを加速させたのです。

作者の皮肉も含まれているのでしょうけれど、顕著なのは『幽遊白書』の霊力や魔力のインフレ。

特に魔界編ではレギュラーメンバーのほとんど、人気の高かったキャラも踏まえ、みんなとんでもない魔力を備えるようになりました。

しかし最終巻の上には上がいるという話のくだりはジャンプのインフレにインフレを重ねていくスタイルのバトル漫画に対する強烈なアンチテーゼだったのでしょう。

1990年代から、それ以降

良く分からないという凄み…

なんとなくバトル漫画に対するマンネリ化を感じ出した時…

他とはまったく違うスタイルでバトル漫画の未来を切り拓いてきた作品がバトル漫画の可能性を一気にひろげます。

『ジョジョの奇妙な冒険』です。

最弱が最強にもなり得る知力戦、戦略と戦術こそが勝敗をわけるというこのスタイルに数字のインフレーションにマンネリ感を感じていた僕のような人間は熱狂しました。

僕がジョジョを読みはじめたのはちょうど3部。

スタンドが登場したことにより、どのスタンドが一番強いのか、さらに、オリジナルスタンド能力を考えてみるなんてのも大流行したものです。

さて『ジョジョの奇妙な冒険』にはひとつの法則があります。

それは、

ラスボスはだいたい時間操作系の能力者ということ。

時間を操作するという能力がいかに異能バトルでは凄みに満ちた能力であるのかということを象徴しています。

しかし…、4部、5部、6部、と『ジョジョの奇妙な冒険』もシリーズを重ねるごとに数値とは違うインフレーションが起こります。

能力が複雑過ぎて訳が分からない…orz

ちょっと理解できないけど…、すげえ! という領域まで異能バトルに置ける凄みを高めたのは『ジョジョの奇妙な冒険』が最初ではないでしょうか。

異能の複雑化というインフレもここまでくると、極まれりという感じです。

また違う方向では…

良く分からない凄みという方向に振りきれた『ジョジョの奇妙な冒険』の裏では、

かつて『幽遊白書』でバトル漫画のインフレーションに対する強烈なアンチテーゼを提示した天才冨樫義博さんが虎視眈々と『ハンター×ハンター』正統派異能バトル漫画として成長させていきました。

そして、さらに違う方向では、かつて北斗の拳でもみられた《ワードの凄み》の亜種《漢字の凄み》特化した漫画も伝説的な人気を得ます。

『るろうに剣心』です。

強さの数値化はせず《飛天御剣流》などの漢字の凄みで勝負した漫画です。

安慈が左之助に伝授した《二重の極み》、極みという感じにそこはかとなく凄みを感じます。

元新選組隊長、斎藤一の《牙突零式》、零式なんて弱い筈がない。

さらに主人公の緋村剣心は正統派に《飛天御剣奥義》、この奥義というワードに凄みを感じない日本人はいないのではないだろうか…。

さらに、その奥義の名前が《天翔龍閃(あまかけるりゅうのひらめき)》。


お分かりいただけるだろうか?


《天翔龍閃》、なんか凄みを感じる漢字を並べた後に《あまかけるりゅうのひらめき》と読ませる。


この技をはじめて漫画で目にした時は、よくわからないけれど、この漢文っぽさに「渋(しび)いーー!!!」と感動したものです。中二全開です。というかリアル中学生でした。

凄みはどんどん進化している

ここまで思い入れのある漫画を中心にジャンプバトル漫画の歴史を凄みという概念を用いて振り返りましたが、他にもバトル漫画はたくさんあります。

最近完結しましたが、

『ナルト』

『ブリーチ』

など、

まだ続いている作品では『ワンピース』、『ワールドトリガー』、各作品みなそれぞれに独自の凄みを発明しています。

これから先のバトル漫画ではいったいどんな風に僕達読者を「なんかすげえ!」と思わせてくれるような凄みが発明されるのでしょうか。

進化し続ける《バトル漫画の凄み》はいったいどこへと向かうのでしょうか…。

まとめ

話を広げすぎるとまとめられなくなるので、今回はジャンプのバトル漫画だけに絞ってみました。

また別の角度からもいろいろ漫画の記事を書けるといいなと考えているので、そちらも宜しくお願いします。

最後まで読んで頂きありがとうございました。